修行

 

◆身体(身)・意・口の修行の中、口の修行が大事

 

 

佛立宗の修行は、口で(上行所伝の)「南無妙法蓮華経」とお唱えすることです。  

 

易しい修行ですが、最上・最高の力(エネルギー)を得れるのです。 

 

難行苦行しても、読経(御経を読む)をしても、今の時代は無意味です。

 

上行菩薩に伝えられた、一大秘法をお唱えすることにより、佛様(お釈迦様)の悟りの一切の力、修行の一切の力、宇宙法界の力を得ることができ、妙不可思議な世界が顕れるのです。

 

 

◆ 身(身体)・口・意の修行の中、口の修行が大事

  

 そもそも仏道修行は、身・口・意三業(しん・く・い・さんごう)をもって行うのですが、末法の時代の修行は、身・口・意の中でも口業(くごう)を第一とするのです。

 身体を使い、難行苦行しても悟ることはできないことを、お釈迦様が身をもって明らかになさいました。

 また、意(こころ)の修行(意業)をしても、お釈迦様はじめお弟子方、能力のある方々のように、悟ることは末法の時代の私たちはできないのです。

 身体をいため苦しめる修行、心を清らかに煩悩を滅する修行、口で秘法呪文を唱える修行を、いくらしても限界があります、いや、成佛はできないのです。

 上行菩薩が伝えられた「南無妙法蓮華経」と口でお唱えすることにより、お釈迦様のお悟りのすべて、修行のすべての功徳、宇宙法界の力(エネルギー)が頂けるのです。お釈迦様が残された教えである、「上行(菩薩)所伝の南無妙法蓮華経」と、口で唱えることにより、その佛力(ぶつりき)・経力(きょうりき)が意、身体に及ぶのです。

 

 

◆三学(戒・定・慧)の中では、慧を学ぶ

 

 更に、佛道修行は戒(学)、定(学)、慧(学)の三学を学ぶのが、大前提であり基本となります。

 戒律を修め、心を禅定にし、佛の智慧を得るのです。 しかし、末法は破戒(無戒)といわれるように、現在の末法の時代に、戒律を守れる人はいないのです。また、心を静めようとしても、心は散り散りに乱れ、心には穴があき、み教えを受け止めることは難しく、そして、心は動き回るのです(散乱粗動)。

 ですから、日蓮聖人は、戒律も禅定の修行も、末法の凡夫はできないから、それを止めなさいといわれ、佛の智慧を得ることが大事と教えられます。しかし、佛の智慧を得るだけの力がない、末法の時代の私たちです。その為には、誠実な信心の思いを強くして、智に代えなければならないと教えられたのです。

 ですから、佛立宗では末法の仏道修行は、お釈迦様が大慈悲をもって、未来の末法の人々を救う為に託された、上行菩薩に伝えられた南無妙法蓮華経の御題目様(おんだいもくさま)を口でお唱えし、意(こころ)に信心の思いを強くして初めて、妙不可思議な佛力・経力を顕して頂く、現証(げんしょう:現実に目に見えた証拠としてのご利益)を得ることである、と示されるのです。

 凡夫が佛になることは、そう簡単にはできるものではありません。しかし、お釈迦様が未来の人々を救い、成佛させんとの大慈悲をこめられた、上行菩薩に託されたみ教えにこそ、唯一の救いの道があるのです。

 

 

◆読経・写経は昔の修行

 

 御経を読んでも(読経:どきょう)、御経を書き写しても(写経:しゃきょう)をしても、今の時代には効果はありません。読経をしたり、写経をすることは、五種の修行をしていることになります。五種の修行とは、御経を読み(読経)、書き写し(写経)、御経を理解し、人に説く(解説:げせつ)、御経を暗記する(誦:じゅ)、御経を持(たも)つ(受持:じゅじ)ことで、古来、この修行をする僧侶を、五種法師といってきました。

 しかし、これら五種の修行は、悟るための修行なのです。悟ることができない現在の末法の人々が、これらの修行をいくらしても、悟れないのです。ですから、日蓮聖人は五種の修行の中の、受持の中に、他の修行を収めて、受持の一行を修行することを教えられたのです。つまり、法華経本門八品に顕された上行(菩薩)所伝(しょでん)の「一大秘法の南無妙法蓮華経」を受持する修行が一代仏教の帰結となるのです。